心の闇

2004年4月19日 ひとりごと
昔読んだ小説の一文に
「人を殺した人間は、殺した時が「狂気」だと思われがちだがそれは間違っている。
人を殺した時は「正常」なのであり、そのあと普通に生活している時こそが「狂気」なのだ」というのがあった。

狂気と正気という所の境界線は本当に曖昧だと思う。
日によって、一分一秒ごとに線が揺らいでいるような状態と言ってもいい。
どっちが「狂気」でどっちが「正気」か危ういことすらある。

その挟間を垣間見る機会を与えられるのだが、
その場所は多分「狂気」の渦巻いた空間だと確信している。
周りにいる人だけが「狂気」だと思っているわけで
その場の中ではその時はきっと「正気」なのだろう。

今まで鬱積していたやり場のない感情を一気にブチまけるわけだから
フツフツと蓄積されて行く段階こそが「狂気」
と、ある瞬間に間違った「正気」のスイッチが入る。

(さあて、狼煙をあげようか?さあ、逃げろもういいかい??)

そうなったら誰も止められない。制止したいがやる術を知らない。
ただ見ているだけだ。それしか出来ない。

(血に飢えて のたくって舌なめずり 辿る先は猟奇の果て)

その場で繰り広げられているのは
「愛情という名前に捏造された感情の暴力だ」だ。

良かれと思って振りまいている感情が、相手の心に幾許かの傷を残す事実に気付かないのだろうか・・・。
自分にもそういう感情がないとは言えないのは周知の事実だ。
「正気という名の狂気」がいつ心を支配しないとは限らないとは言っておく。

でも、それを抑制できるのが「人」だ。
大切なものを頭で考えて守ってあげられる事が出来るのが「人」だ。
出来なくなったら「人」じゃない。それは「鬼」かなんかだ。
わは「人」でありたい。わは「人」だ。

「愛情という名前の感情の暴力」を振るう年はもう過ぎた。
暴力は傷としがらみを残すだけであって、何も解決はしない。
いい方向に進むことは決してありえない。

だとしたら、目指す先には何が見える??
その前に相手の傷が見える??
見るのも痛々しい、そこまでの深手に??

その前に、本当に大切なものという認識ある??
目の前で力を無くして途方にくれた姿が理想?

だったら、それは確実に間違った理想だ。
当の本人が気がつかなければ、忠告はただの「音」にしか過ぎない。

ここまで思っていても、そう思う人は数あれど、
わたちも「一括り」になるのが悲しい・・・。

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